介護生活にまつわる事件などについて思うこと

ここ最近、ニュースなどで介護生活にまつわる悲しい事件などをよく目にする。

我が家では統合失調症の妻の介護を、ほぼ私ひとりで2010年の夏から延々続けている。5年以上になる。なので世間のニュースで聞くような「介護疲れ」とか「介護生活で希望を失う」と言ったことも身をもって体験している。なのでこのテーマで少し意見を述べる資格はあるのではないかと思う。もちろん、もっともっと期間の長い介護生活を送っておられる方や、統合失調症とはまた違うもの、例えば認知症などの方の状況が完全にわかるわけではないが、それでも、自分たち自身の今後の生活への希望も託しつつ、また自分でも気をつけたいことも含めて、書き記しておきたい。

確かに介護生活というのは、本当に疲れる。疲労困憊だ。

意思疎通がままならない。思うような行動を取ってくれない。して欲しくないことをしたりする。うるさかったり、迷惑だったり、実際にご近所や関係する人々から苦情を言われることもある。

このような状況だと、介護する側も睡眠を十分に取れなかったり、栄養面がおろそかになったり、ストレスがたまってきたり、単に世話をするために肉体的に疲れてきたりもする。

介護生活が長くなってくると、いつ終わるとも知れない状況に希望を失い、もうダメなんじゃないか、とかいっそ楽になってしまいたい、などと思うこともある。

このようにマイナス面を羅列していくと分かるが、これは全く悲惨極まりない状況だ。
これらのマイナス面を全て上回るか、もしくはかなり緩和してくれるような、何らかのプラス要因がないと、正直無理だ。とてもじゃないが生きていけない。

特に、健康面で何一つ不自由なところがないような他人の人生と比較なんか始めると、目も当てられない。これ以上の不幸がこの世の中にあるはずがない、くらいに思って、暗い沼の奥底深くまで気持ちが沈み込んでしまう。

では、プラス要因はあるのかというと、これは数えると意外にもたくさんある。

種類は、大きく分けて3つかなと思う。

一つめは「支援」。

二つめは「被介護者からの癒し」。

三つめは「状況の捉え方」だと思っている。

一つ目の支援については、行政からの制度的な支援や経済的な支援に始まり、家族からの支援、ご近所からの支援、私の場合はこのブログがあるので、これを読んでくださる方、コメントをくださる方、その全てを支援に感じている。

二つ目の「被介護者からの癒し」というのは、例えば私の場合だったら、妻が調子がものすごく良い時にくれる手紙やメモ、時折見ることのできるニッコリとした表情、調子の良い時にパクパクとご飯を食べる姿、妻が一生懸命メモや手帳、カレンダーにシールを貼る姿など。調子が悪い時に見せる、まるで地獄の住人のような姿とは真逆の妻の一面を見ることで、かなり癒されていると思う。

三つめの「状況の捉え方」というのは、文字通り、この一見悲惨で、他人と比較した場合には明らかに不幸な状況をどのように自分自身が捉えるか、ということだ。私はプラス要因の3つはどれも欠かせないほど大事だと思っているが、この3つめの状況の捉え方如何では、前の二つが帳消しにも、反対に何倍の威力にもなると思う。

どういうことかというと、この介護生活という状況を単に「不幸(マイナス)」と捉えてしまうと、掛け算で総合的に大きな大きなマイナスになってしまい、とても耐えきれるものではなくなってしまう。

反対に介護生活という状況を「なんらかの恵み(プラス)」と捉えると、同じく掛け算で総合的に大きな大きなプラスになって、なんだか感謝したくなるような気持ちになってくる。

私の場合は、どのようにこの介護生活を「なんらかの恵み」と捉えているかというと、この介護生活を通して、生活そのものが大きく変わり、価値観に大きな変化があり、いろいろなことに気づく機会になったと思っている。

以前にもこのブログに書いたが、妻がこの病気になり、介護生活が始まる前の生活といえば、「早朝の出勤」「深夜の帰宅」「効率最優先」「仕事仕事仕事」「妻の話もロクに聞く余裕なし」「申し訳程度の週末の家族サービス」という感じで、おおよそ人間らしい、豊かな精神生活を送っているというわけではなかった。確かに収入は今よりも全然多くて、モノこそたくさん買っていたが、今思えば、だからなんだ?という感じなのだ。かなり最低の部類だと思う。

全く妻のことを疎かにし、愛情だとか、ゆったりとした時間とか、小さな幸せみたいなことには気づかなかったというか、興味が薄れていた。

この介護生活のおかげで、妻への愛情も再認識できたし、二人でとてもゆっくりとした時間を過ごせ、小さなことを幸せだと感じることができるようになったと思う。変な話だが、もしこのような生活の変化がなければ、私は一生マシンのように働き続け、精神的にはものすごくお粗末で、無味乾燥な日々を”効率的に”過ごしていたことと思う。妻がいなければ、立ち止まって、愛情や、素晴らしい時間や、小さな幸せを感じることなどなかったのだろう。

だからこれはむしろ感謝するべきことなのだと思う。だからと言って、妻の病気はいつの日か、ちゃんと治って欲しいのだが。

その他、再び実家の近くに戻り、年々年老いていく母親の近くにいることができたり、10年以上話すらしていなかった兄弟とまた話せるようになったり。

しかし、どんな時でも介護生活をプラスに捉えるなんていうことは、おそらくどんな人でも常にできることではなくて、だからこそ、周囲からの支援や、被介護者からの癒しが重要なのでないかと思う。実際に、私も支援や妻からの癒しが、状況をプラスに捉えることのできる呼び水になったりすることも多い。

なので、これは私自身への期待というか、注意すべきこと、という意味も含めて、僭越ながら、介護をする側の人々には、ぜひ「支援」「被介護者からの癒し」に触れる機会をたくさん持ち、「状況の捉え方」をプラスの方向に持って行っていきただきたい。何らかの恵みだと感じる要素を見つけていただきたいのだ。

病気の介護でも、認知症の介護でも、それまでその人とすごした時間の中で、愛情を感じる瞬間や、何か嬉しいこと、楽しいことがあったはずだと思うのだ。

少しでも多くの介護をする人、介護される側の人々が、幸せな生活を送っていただければと心から願っている。

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コメント

  1. Takeman より:

    おっしゃるとおりだと思います。
    私も同じ境遇の方のブログをみることだけでも支援を感じています。
    大きな幸せは望めなくなったとしても、小さな幸せは無くなったわけではなく、私も小さな幸せを見つけることは以前と比べれば少しだけ得意になった気がします。

  2. schizo より:

    Takemanさま
    コメントありがとうございます。お返事遅くなりました。
    私はブログを書いていながら、読み返すとついついその時の状況や気持ちを思い出してしまい、自分が書いた文章を読み直すのが辛いので、書いたらしばらくほったらかしてしまいます。
    読み直すと辛くなるのですが、日々の生活はいいこともあり、悪いこともあり、なので、またぼちぼちと、人生の良い面を見つけて頑張っていこうと思います。
    小さな幸せを発見するのが得意になった、というの、いいですね。
    どれだけ、幸せを感じることができたかで、人生の質が決まるのではないかなと思うので、たくさん幸せを見つけられたらいいですね。