(2011年7月)
実家の一間に移り住んでから、数日で妻にとってこの環境がベストでは全然ないということがはっきりした。どんどん病状が不安定になっていったのだ。
実家には母と兄が暮らしていたが、やっぱり長い生活暦があるのでいろんな細かい決まりごとがある。まず生活のリズムがきっちりしている。朝7時ごろ朝ごはん、お昼は自分で作るが、夜ご飯は午後7時ごろ。夕方5時~6時がお風呂。お風呂の順番なんてのもある。あとゴミ出しとか電気つけっぱなしにも厳しい。省電力の意識がかなり高い。
前に妻と二人で住んでいた家では、妻の調子優先で、生活のリズムなんてなかったし、電気つけっぱなしなんてよかったし、私が消せば済むので、何の問題もなかったのだが、やはり実家では自由にならないことが多かった。
母も兄も、最初の頃は穏やかでやさしかったが、妻がこの生活パターンについて行けず、電気はよくつけっぱなしで怒られるし、生活パターンも不規則なのでリズムが合わず、だんだん不機嫌になってしまい、家族にあたり始め、しまいには常にだいたい怒られる存在になってしまった。
私も最初の頃こそいろいろ事情を釈明して、妻をかばっていたのだが、やはり“統合失調症の人間を理解する”というのは相当普通の人には難しいことで、妻の理屈、理由、事情、なんであれ、常識で考えられないものはすべて無視され、実家においては、常識に従えないやつはダメなやつだ、という認識になってしまった。これは無理もないことだ。夫の私ですら、妻が再発して2年経ってもまだまだ全然理解できないことばっかりだから。でも私の場合、実家の家族と違って、妻の良かった時の姿、性格、考え方の癖なんかを知っているし、少々無理してでも治してやりたいと思っているので、少々のことには耐えられるけれども、実家の家族にとっては単なる腹立たしいことでしかない。
私はだんだんと妻の言動から予想される家族のネガティブな反応に神経質になってしまい、問題が巻き起こるのを先回りして避けるために妻にだんだん口うるさく注意するようになってしまった。こんな環境では病気によいはずない。実家の家族とも妻ともずいぶん喧嘩してしまった。私も疲れてしまった。実家に引っ越してきた当初は、なんとかうまくやれる、と高をくくっていたが、無理のようだった。
ある日、妻に異変が起こった。
またしても妻がトイレの電気をつけっぱなしにしていたので、また家族に見つかったら困ると思った私は、ちょっと厳しく注意したのだが、すると妻が「だれこれしらなーい!」「しらないひとなんだからちかづかないでー!」と大声を上げてしまった。真夜中だった。
これ以前は、カメラを近づけると機嫌よく写っていたし、手を差し出すと握り返してきていた。私のことも夫だと思ってくれていたようだった。でも、この日を境にして、妻は私のことを“知らない人”ということにしてしまったようだった。話し方も変わっていた。知らない方言で喋っている。今まで聞いたこともなかった言葉遣いで、たまに何を言っているのかわからなかった。おそらく実家での生活環境がつらすぎて、かばうどころか先回りして注意してくる私という存在がウザくなってしまったのだろう。それで記憶から消されたのかもしれない。もしかしたら私がそれまで切れずにいた髪を散髪屋でばっさり切ったので見分けがつかなくなったのか?
言葉遣いに関しては、妻の親が転勤族だったために、いろんな場所で子供時代を過ごしたというのは聞いていた。でも実際は、ある程度大人になってから住んでいた土地の言葉しか彼女の口から聞いたことはなかったので、ちょっとびっくりした。どうも話し始めたのは妻が幼い頃住んでいた土地の言葉のようだった。
そんな状況でも、妻は実家にいることが苦痛であることには変わりなかったので、実家で唯一外に連れ出してご飯をくれる人である私にはついて来たので(というか、その頃には妻がいつの間にか出かけようとしていて、私が追いかける、というパターンだったが)、よく外食には行った。ほぼ毎日お昼ごはんは外食、夜もたまに外食だった。だが、私のことは夫ではなく、あくまで“知らない人”ということになっていた。
当時良かったことといえば、実家の家族に再び会えたことと、お金が節約できたことぐらいだろうか。あのまま元居たマンションに済み続けていたら、毎月15万円ずつの赤字なので、計算したら恐ろしいことになる。年間180万円の赤字だ。これは私が何も稼げなかった場合の金額だが、当時の混乱振りを振り返ると、実際とても何かして稼ぐなんていう余裕はなかったので、かなり実現確率の高い赤字予想だ。
ともかく、なんだかいろいろ限界だった。実家の人間関係はたったの3ヶ月で崩壊寸前、妻は記憶を無くす、引越し先はなかなか決まらない、妻は外食要求を毎日してくるのでお金もすっ飛んでいく。それでも、なんとか実家にも気を使い、妻にも良い思いをさせたいと思い、頑張っていた。そのころ申し込んでいた公営住宅の抽選に当選することくらいしか望みがなかった。
まあ湯水のようにお金を使える身分ならこんなには苦労しないのだろうが、先行きもわからないのにそんなことは出来なかったので、望みのレベルは低いのかも知れないが、とてつもなく針の穴のように当選確率も低かった。